中フィルのこれまでの思い出やエピソードを10年ごとに振り返ってみました。
中フィルが創立されることとなった題旨は特異で明確なものでした。
それは「うたごえ(合唱)運動」の目標、即ち“平和で健康な音楽を国民のものとする”をオーケストラ演奏を通して追求することでした。発足当時はギターやアコーディオン等も加わって15名程度のメンパーでした。しかし特異な存在が反響を呼び音大生も加わリー回目の演奏会の年には団員53名にまで拡大されました。
当時は土・日曜日に演奏依頼が多いことから毎週2回の練習は水・金曜日が多かった様に記憶しています。団員の皆さんは勤務先の支度と同時に楽器も抱えて朝家を出るのでした。
チェロ弾きT.Kさんなどは満員の通勤電車の中で何度となくチェロを壊されたそうです。運営会議も頻繁に開く必要がありました。楽器不足、奏者が少ない、技術の向上も図りたい、何よりもオケを成長させる意義を意志統一する為の団員間の意見交換には時間がかかります。オケの活動日の帰宅は夜中の1〜
2時ということも度々でした。
演奏は自主公演も行いましたが、多くは演奏依頼に応えて何処へでも出掛けて行くスタイルで、当時盛んだった“うたごえ喫茶”、全国各地で開催された“うたごえ祭典"、労働争議を支援する集会、反核やベトナム侵略反対平和運動の集会等々様々でした。オケの演奏は何処でも大いに喜ばれました。団員皆さんの願いは、”もっと喜ばれるようになりたい”。この気持ちが活力の源になっていました。
忘れられない演奏会は数えきれない程ありますが、一例をあげますと、1969年、企業閉鎖と解雇事件を闘う「大鹿産業に働く労働者を励ます集い」での出来事です。その日の演奏曲「地底(ぢぞこ)のうた」(炭鉱労働者の労働と生活をうたっ
た合唱組曲)で、どうした手違いか楽譜を忘れて来てしまいました。やむなく30分演奏を遅らせてもらい、その間に暗譜演奏の為の練習をしました。本番では見事に演奏することか出来、盛んな拍手を受けて団員は大きな感動と喜びを体験したのでした。因みにこの年のコンサート回数は38回との記録が残されています。
自分で書くのもなんなのだが・・。1980年までの暗黒時代と、1981年以後の好転期とに分けて回願したい。
「暗黒時代」は練習場が一定せず、いくつかの区の勤労福祉会館等の施設を毎週転々としているジプシー状態のオケだった。そして毎週譜面や譜面台を手で運んでいた時代でもある。
リヤカーでティンパニを運んだこともあった。筆者としては、「二度とあんな経験はしたくない」というのが実感だが、一方で「よく頑張ったもんだ」と自分たちを誉めたくもなったりして。
それに、このオケがずっと辿ってきた合唱伴奏の活動からだんだん離れていったのもこの時期だった。
交響管弦楽系の演奏が中心になってくると、どうしても「うた伴」的な活動は難しくなってしまう。激しい議論にはなったが、もう2管編成のフルオケを目指す流れは止まらなくなっていた。
とはいっても団員はまだ少なく、10人くらいで「合奏」練習するのが当り前みたいな頃だった。弦の4パートが揃ったら手を叩いて喜んだりして。今から思うと信じられないくらいである。
当時の団長は「毎回の練習に40人集まるくらいを目標にしよう!」といい、当時の事務局長が「30人集まるようになってからそれくらいの目標を立てるベきだ!」と反論してたっけ。
指揮者に「1stパイオリンが常時3プルト(=6人)揃わない練習は、振りたくない」等と怒られたこともあった。団員拡大は急務だったが、やっぱリジプシーでは大変。そんな中、ある団員が渋谷区のある施設を「練習場に」と紹介してくれて、それ以後はその会場を中心に毎週の練習をするようになった。(もっとも、その毎週の練習場を確保するのも、担当者が休暇を使ったりして大変な努力が続くわけだが・・・。そしてその努力は今でも続いている)
練習場が1ヵ所に固定されると団員募集もしやすくなり、すこ― しずつ状況は好転し始めた。曲も、中フィルの歴史の中で突然「モルダウ」「ドボ8」という、我々にとっての大曲プログラムが現れる。この経緯にも触れたいがスペースがない。ともあれ、ジプシー時代を耐え抜いた団員にとっては感無量の定演だった。で、その後はブラームスやシベリウス等「普通のアマオケ」の姿に近づいていくことになる。
演奏曲目の一覧に見るように、所々ムチャな選曲も散見されるものの、2管から3管規模へ、いつの間にか「40人の練習」もできることが多くなった。当然、難曲。大曲を採り挙げることが多くなる。と、どうなるか。当然、練習について行けなくなる団員が出始めるのである。アマオケの宿命、と言ったらそれまでなのだが、「弾ける人」「吹ける人」しか残れないというのは、なんだか寂しい気がした。
そして20周年の年を迎える。合唱運動の中から生まれたオケとして、この節目の演奏会には第九しかないだろう、という暗黙の合意…というわけでもないが、全団員が自然に受け入れ、合唱団を中フィルがわざわざ組織したりして(これも無茶苦茶大変だった)一生懸命頑張った。あの第九は、今聴いても大変立派なものである。
この10年間は中フィルにとって色々な意味で発展的な10年間であった。先ずは、それまで2年に3回位の間隔で不定期に開催されていた演奏会が、現在と同じ年2回の定期演奏会になったこと。もともと管楽器からは間隔が長すぎるという意見があったが、弦楽器には練習期間が短くなることへの不安があった。しかし、いつも演奏会が近くならないとなかなか練習に人が集まらないという実情もあり、それだったら間隔が9カ月でも6ヵ月でも実質的に変わらないじゃないかということになった。もちろん演奏会が増えれば、練習だけでなく運営も大変になるわけで、団員の数が増え、オケに体力がついてきたからこそそれが可能になったといえる。
合奏が中心だった練習も、弦、管に分かれた分奏を大幅に増やし、分奏の時は毎回トレーナーに指導していただくように改革された。完全自主運営のオケゆえ、練習会場取りの問題や、予算確保のための団費の値上げなど困難もあったが、より良い演奏、より楽しい演奏を目指すという意気込みで実現することができた。とはいえ、すべてが順調だったわけではない。せっかくこのような意気込みで分奏を増やしたのにもかかわらず、当初は分奏になると出席率が悪くなるという悪癖がなかなか解消されず、トレーナーの先生方にも申し訳ない思いをしたことが何度もあった。
また社会人オケの宿命で、仕事や家庭の事情などによる団員の入れ替わりが多く、構成が一時的に不安定になることはよくあった。3人いたトロンボーンが一度にやめてしまったこととか、低弦の人数が手薄で、本職はバイオリンの当時の団長がビオラやチェロにまわったことも。そんな中で、大曲や難曲、あまりなじみのない作曲家の曲にも挑戦するなど、プログラムの幅も広がってきた。
指揮者は引き続き山崎茂氏にお願いしていたが、1990年の第19回定期演奏会に、初めて鈴木織衛氏を客演にお迎えした。当時鈴木先生は20代、芸大指揮科の大学院に在籍されていた。この時はこれが鈴木先生との長いお付き合いの始まりになるとは思いもしなかった。最初の練習の時は、新しい指揮者をお迎えする期待と不安とで妙に緊張してしまったことを覚えている。その時のプログラムは、大学祝典序曲、火の鳥、ベートーヴェンの7番で、中フィルとしても、初めての客演指揮者にお願いする曲としても、かなり冒険的なプログラムであったという気がするが、果たして鈴木先生はどのような印象を持たれたのであろうか。長年中フィルを指揮してくださった山崎先生とは、1991年12月の演奏会が最後となったが、中フィルの基礎を築いて下さった温かく辛抱強いご指導に心から感謝の意を表したい。
鈴木先生にはその後1回の客演を経た後、毎年2回の定演の指揮をお願いすることになり、現在に至っている。
1995年に「創立30周年30回定演」という節目を迎えた後、 1年半ほどは団員数が減り続け、低迷期に突入してしまいました。稼動団員が50名を切った時には、この先中フィルはどうなっていくんだろう?という漠然とした不安感とともに、何か早急に手を打たないと…と危機感が募りました。『中フィル』という看板を支えてきたのは固定のメンバーではなく、常に新しいメンバーを受け入れながら、その時々の団員が支えて受け継いできたわけです。
40周年、50周年を迎えられるように活動を続けていくためには、団員を増やして活性化することが必須、そのためには何か皆で共有できる「中フィルらしさ」を出していきたい、「中フィルらしい活動の方向性」を持ちたいと考えるようになりました。
そんな思いの中で、この10年間はいろいるな試行錯誤を重ねてきましたが、5年毎にその足跡をたどってみたいと思います。
「中フィルらしさ」を摸索する中で試みたことの一つは、《テーマをもった演奏会企画》でした。もっと団外にもインパクトのある演奏会にしてみようと、意識してプログラムを考えたことを思い出します。
第31回〜 34回定演では毎回異なるテーマを掲げた演奏会を企画。毎回のテーマを考えるのはなかなか大変で、結局は核となる曲を先にしぼって、そこからテーマを考えながらプログラム全体をまとめていくことになりましたが、テーマなしではあがってこなかったような曲を発掘するきっかけになったと思います。
また、第38回〜 40回定演では、2年通しての企画として「古典(ベートーヴェンの序曲)と20世紀作品をセットにした3回シリーズ」を実施しました。
20世紀作品は難易度高として敬遠しがちだったのですが、ちようど21世紀の幕開けを前に、やるなら今だ!と、思い切って未知の分野にチャレンジした企画でした。 中フィルは不思議と節目になると勇気が出る団体なのです。この頃には団員数も60名を超えるようになり、だいぶ活気が戻ってきました。
1998年頃から、選曲だけではなく団の運営体制の面でも新しい枠組みを模索するようになり、運営委員会や技術委員会、団員総会などの場で議論を重ねました。それが形となり、新しい枠組みをベースにした活動が本格的にスタートしたのが2001年です。
それまでにも度々演奏会の企画や選曲面で新しいことにチャレンジするきっかけをつくってくださり後押ししていただいていた鈴木織衛先生に、この年から常任指揮者として恒常的に演奏会の企画や選曲の提案、客演指揮者の紹介などをお願いするようになりました。
そして、2年サイクルで演奏会を考える中で、初企画である「カジュアルコンサート」(第45回、49回)の実施、定期的な客演指揮者の招聘、ソリストとの共演など、毎回違った刺激のある演奏活動を積み重ねました。
我々中フィルは2005 年11 月に創立40周年記念、第50回定期演奏会をベートーヴェンの第9交響曲で祝い、また一つ大きな節目を迎えました。
このころには中心となるメンバーが増え、演奏のみならず組織としても大人数を抱える団体としてしっかりとした活動を継続できていたと記憶しています。もちろん後ろ盾のない自主運営の組織ですので、楽器を持って週末に集まる以外に各自の中フィルの担当業務を果たしながら、定期演奏会というゴールへ向けて着実に足を進めてきました。
業務というと大げさに聞こえるかもしれませんが、練習会場確保、楽器手配、指揮者やトレーナーとの連絡、練習内容の打合せ、演奏会の告知活動や準備…など中フィル団員は何かしら担当を持ち、運営業務を分担させています(かく言う私もこの文章を本来の仕事はそっちのけにして高度1万メートル上空で書いています。それにしても今日はよく揺れる!)。
2005 年は40 周年イヤーとして春のカジュアルコンサート、秋の第九交響曲共に約1000 名という中フィル史上最高の集客を誇りました。これは少なからずとも我々の自信につながったと考えています。だからといってどんな曲でも演奏できるかというと、むしろできない曲の方が圧倒的に多いのが現実です。技術的に困難というだけではなく、編成の問題、譜面の問題、人数の問題、経済的な事情など多くの山を越えなくてはなりません。
2006 年の第51 回で取り組んだラフマニノフの交響的舞曲など技術的に難しく、なおかつメジャーではない曲でしたが、常任指揮者の鈴木先生の熱心な指導の下、トレーナーの先生と共に難曲に取り組むことができました。変拍子を数えながら鈴木先生の棒を必死に追っかけたことが思い出されます。
指導者、団員共に長期にわたって活動を続けてきたおかげで、このころから皆が「中フィルとは」を常に意識しながら行動してくるようになってきます。もちろん団員の入れ替えはありましたが、主要メンバーはほとんど変わらずに次回の演奏会だけでなく中〜長期的な視野を持って計画し実行するようになります。我々の演奏に足りないものは何か、お客様に喜ばれる演奏とは何か、中フィルらしさとは…常に考えながら週末に集まる日々を過ごしました。定期的に客演指揮者やソリストとも共演することで、普段とは異なる経験を重ることもできました。
2006 年「のだめカンタービレ」効果で巷ではクラシック音楽が話題となり、便乗して団員も増えるかと期待したもののあまり変化せず。2009 年には新型インフルエンザが世界的に大流行し、不特定多数人間の集まりに制限が生じることもありました。
そんな中、2010 年には60 回定期に「カジュアルコンサートVol.3」を開催。順調に活動を続けてきたと思っていた矢先の2011 年に東日本大震災が起こります。世の中が悲しみに暮れるなか、我々中フィルはどうしたら良いのか、多くのことを考えながらの活動になりました。
余震に怯え様々な場面で活動に制限を受けながらも、議論を重ねつつ2か月後の演奏会へ向けて練習を再開しました。我々にできることはこれまで通りの中フィルを続けていくこと、前を向いて進むことだったのです。5 月の演奏会の最後には鎮魂の祈りをこめて「エニグマ変奏曲」から「ニムロッド」(エルガー作曲)を演奏いたしました。
その後も恒常的な活動を心がけながら、音楽を愛する団体として年2 回の定期演奏会を核に音楽的にレベルアップできるよう日々の練習を続けています。オーケストラとは別に室内楽などのアンサンブル活動も積極的になり、ひどい時は(?)ほぼ毎日のように集まって練習をすることもあり、決まってそのあとは反省会(!)がもれなく開催されています。
そしてついに今年2015 年に中フィルは創立50周年を迎えました。
(1965年から2005年までは、40周年記念の演奏会パンフレットから転載しております。)